「はじめに」

当初は、建物と建物の間(隙間)をテーマにしようと考えていました。町中の建物同士の隙間は、わずか50~60センチのところが多くありますが、

猫の視点から見れば、一般道路の広さがあるわけで、もっとこの隙間を有効に活用できる方法はないものか考えていました。

また、その隙間から見上げる壁や屋根のシルエット、空へと抜ける空間に、何か惹かれる独特の風景を感じていました。

そちらはまた別の機会とさせていただき、今回は常日頃直面する隙間に焦点をあててみようと思います。

こちらでは、私達が普段何気に目にしている隙間を、主に建築の隙間にクローズアップして、隙間の役割と向き合い方を、

一建築意匠設計者の観点で概念的に捉えてみました。よろしければ暫しお付き合いください。

 

「隙間(数奇間)の美学」

建築に携わっている中で、隙間の処理に向き合うことが多々ありますが、隙間そのものは物理的な対処法として、

または、表現を豊かにする意匠の一つとして捉えてきました。特に人の目に触れるところは、物理的な対処と意匠を兼ね備えなければいけません

私は、隙間は数奇間でもあると思っています。正直に手抜かりなく対応したつもりでいても、想定外の問題が発生し、ある意味厄介で難しい存在になりえるからです。

 

私達が視認できる範囲の物体同士には、多くの隙間(空、緩衝帯、クリアランス、目地、遊間等)が存在します。

人もしかりですが。建物の部材同士にも大なり小なりの隙間(空)が多くあり、また、物理的にも必要なものです。

目で見えるものとしては、例えば建物と建物の連結部のエキスパンションジョイント、瓦と瓦、屋根材と下地、外壁と下地、扉と扉枠、

扉と扉の召し合わせ、障子や襖と敷居、鴨居、建具とガラス、引き出し等多々あります。

異種の物体同士や、同種でも物体同士を突き合わせる(接触)させる場合には、下地にも影響されますが、

気候、経年劣化、地震等による動き(伸縮)を勘案して隙間を設けることがあります。

また、コンクリートや左官等の練物は、乾くと収縮し亀裂が生じますので、それを見越して、亀裂の生じやすい部分に予め隙間(目地)を設けることがあります。

 

建築以外でも、多くの物には隙間が存在することがわかります。身近な物としては、パソコンのキーボード、各種のボタンやスイッチ、時計の針と文字盤、

ボールペンのノック部等です。規模の大きな物では、橋の両端部、踏切の線路と道路、電車とホーム、電車の連結部、レールとレールの継目等、

物と物との組み合わせ部分の多くには、大小の隙間があります。

 

もしも、車のボディとドアとの隙間が1センチもあるとしたら、きっと何かおかしいと感じるかと思うのですが、普段見慣れていないからかもしれませんが、

そこから雨水や埃、風が侵入し、故障や劣化の原因にもなります。よって隙間の寸法は大切で、機能的にも重要なものです。

 

建築も同じで、異なる物体同士には、用途や材質、環境により適度な隙間が必要で、その隙間が大きすぎても、小さすぎても機能的に問題が生じ、且つ美しくないのです。

さて、隙間が大きくなると隙間とは言わず、開口やボイド、アパーチャ等という名称に変わり、そこには間隔が生まれます。

間隔の両端の物体の大きさとの比例、いわゆる間隔とスケールは、多分どの分野においても重要なファクターであると思います。

ある意味、隙間、間隔をマスターすることが、美しいものを造る上での前提条件といっても過言ではありません。

 

少々飛躍しますが、ギリシャのパルテノン神殿の正面には8本の柱がありますが、この柱と柱の間隔は均等ではなく、両端の柱間隔は狭く、あえて柱頭を若干内側に傾けています。

これは、柱を均等に垂直に建てると、正面から見て両端の柱が外側に開いて(倒れて)見える錯覚を修正する一つの技法といえます。

溝彫り(フルーティング)のある柱は、エンタシスの効果と相まって、垂直性を強調し、陰影をつくることで様々な表情を見せてくれます。

規模、高さが大きくなる程、ただ垂直に造るだけではなく、目の錯覚、陰影を勘案して造ることが大切であることを教えてくれます。

また、柱頭上部の横架材(梁)部分にあり、メトープと隣り合う縦三本筋のトリグリュフと、それを上下で挟むのミュウチュレ、グッタエ

(建物を引き締める効果のある、ほぼ等間隔の飾り)のサイズと間隔には、担当した設計者、総指揮者、彫刻家、工匠達の優れた美的感覚と力量を感じるところです。

 

さて、パルテノン神殿は紀元前438年に完工したとされていますが、そこから下ること約1000年余り、

世界最古の木造建築といわれる現在の法隆寺が完工しています。この法隆寺の柱も、形状こそ多少違いますがエンタシスです。

この技法がどのように日本に伝わったのか、それとも偶然の一致なのかは議論の分かれるところです。

屋根の形から見れば、当時の日本は切妻屋根が主で、法隆寺の寄棟と入母屋の組み合わせは少なかったか、まだ日本に存在していなかったのではないかと思われます。

とすると、やはり渡来人の工匠がすべてに関わっていて、柱も同様と考えるのが自然ではないかと思う次第です。

当時としては、工法、形状共に斬新で、周辺から多くの注目を集めていたことと思います。

もしも、エンタシスを渡来人が伝えたとするならば、年代的にも、秦氏一族の影響が少なからずあるのではないかと想像します。

理由の一つとしては、秦氏が広めたといわれる稲荷信仰、そして鳥居にあります。こちらはまた別の紙面に記します。

 

さて、話を戻します。日本には古来より、木割り、畳割りという建物の各部の寸法を比例により算出する方法があります。

部屋の広さに応じて天井の高さを決めたり、また、部材のサイズや格子の間隔を決める伝統的なシステムで、もしかすると、法隆寺を建立した頃には体系化はされていなくても

既に一部では活用されていたのかもしれません。この木割りを、1608年に紀伊国の番匠、平内正信が書物化したのが匠明です。

当時の人より現代人は身長が伸びていますので、若干の修正が必要な部分もありますが、現在でも特に和室を設える時には、とても参考となるものです。

つづく。

 

今回はここまでとさせていただきます。

最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。

度々追記いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。

また、ご意見、ご感想をいただけますと幸いです。

 

                                                                          文責:田村

                                                                          2023/3/15